これまでの4年間その1

初めて行ったのはカナダのバンクーバー。今となっては恥ずかしい話だがその頃の自分の頭の中では「外国=アメリカ」で、カナダとアメリカの区別もはっきり知らなかったぐらいだった。
それでも外国に行きたい理由は沢山あった。例えば、英語(高校時代に最も苦手だった教科)を話せるようになりたいだとか、単純に海外がカッコいいと思ってたし、高校を卒業してから大学に進学できる程の学力もお金の余裕も無かったから。それにどうせ日本で就職するかフリーターになるぐらいだったら、いっそう海外でフリーターにでもなれば誰にもカッコ悪いと思われないし、逆にかっこ良く聞こえるんじゃないか、そんな風に考えていた。

 準備資金として用意したお金は渡航前に友達と遊びまくったため殆ど使い果たし、実際自由に使えるお金は15~20万円ほどだったと思う。もちろん航空券の買い方なんかも全く知らなかったのでパスポートの取り方をはじめ、ビザとは何か、滞在期間、滞在場所、ありとあらゆることをインターネットで調べ尽くし、なんとか渡航までこぎ着けた。今のご時世インターネットは本当にありがたい物だと思う。なんとか予約した飛行機は英語が話せない初めての海外にして、アメリカで乗り継ぎの片道切符。昔から何故かこういうシチュエーションにアドレナリンが出る。
 現地に到着してまず向かったのは日本からインターネットを通して予約しておいたホームステイを受け入れている日本人の家。なぜカナダに行ってまで日本人の家にホームステイしたかというと本当に英語が全く話せないので、そこしか普通に暮らせるところが無かったから。そこもなんとか根性出して英語のみのホームステイでも頼めれば良かったのだろうが、そこまでの根性は無かった。他のやり方としてエージェントを通すと日本語のみのやり取りで英語のホームステイ先を探してくれるのだろうけど、余分にお金が懸かるためそれもケチった。それで自分でなんとか出来る日本人の家にしたというわけだ。
迎えに来てくれた人はシビックを運転していた。「やはり日本車が一番いい」と言っていたが、その時の僕にはそんなことどうでもよかった。そんな事より普通のシビックが左ハンドルだということに感動していた。家までの道も右側通行。道も広くて、みんなガンガン飛ばしてる。明らかに日本とは違う光景にかなり興奮したのを覚えている。そのとき、本当に外国へ来たんだと実感した。
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車から見えた景色

 
 無断で女の子を連れ込んだり、家の鍵を綴じ込んでしまったりち色々怒られたが、なんとか1ヶ月間はそこで暮らし、1ヶ月後には家を出て市街で暮らす事にしようと思っていたので、予定通り部屋探しをを始めた。元々は自分がルームメイトとしてど誰かが借りているアパートの部屋に入れてもらおうと思っていたが、思うように部屋探しは進まなかった。そんなときある考えが浮かんだので自分でアパートを借りてルームメイトも自分で探す事にした。アパート自体は意外と簡単に見つかった。大体のアパートでは入居の際の契約として「退去の際は次の入居者を見つけてから」という項目がある。そのため掲示板やインターネットを毎日チェックしていれば意外と見つけられるもので、そこへ直接連絡して部屋を見に行ってみて気に入ればその場で交渉成立。保証人もいらない北米のシステムはかなり助かる。実際に払うお金はひと月目の家賃と家賃の半分と法で定められている保証金のみ。1000ドル(当時のレートで約10万円)の家なら1500ドル払えばそれで入居可能と言う事。
ちなみに僕の住んでいた家は1150ドルで、大きなリビングが一つにベッドルームが二つ、キッチンとバスルーム付きのアパート。
そして次はルームメイト探し。これも主にインターネットや路上の掲示板、友達のつながりなどを駆使して見つける。借り主は自分なのでベッドルーム二つを500ドルずつで貸していた。これも生きる知恵のうち。お金の面ではかなり助かるこのルームシェアというシステム、ここでの生活もなかなか良い経験になった。最初はルームメイトとの約束事として一筆書かしておこうと思ったのだが、途中でめんどくさくなってやめてしまった。今思えば書かしておくべきだったのかも知れない。朝からキムチをフライパンで炒めたり、冷蔵庫でキムチを漬けたり、沢山買っておいたはずの食器が一枚も無くなったり、トイレを殆ど流さないとか、ルームメイトが友達にトイレットペーパーを横流し、なんてこともあった。文化の違う国の人たちと一緒に暮らすというのはそう簡単なことではない。友達から聞いた話しでは自分の部屋にミラーボールを付けて毎晩パーティーしているルームメイトもいたとか。うちの方がまだマシか。


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バンクーバーで一番好きな住んでいたアパートの前から眺める景色 高層マンション、海、雪化粧の山



 無事に住む場所は決まった。とは言っても住む場所があるだけでは生活はできない。家賃その他引っ越しにかかった費用のせいで財布の中はかなり寂しい事になっていた。お金が無いということは明日のご飯の心配が出てくる。明日のご飯を食べるために働かなければならない。そう頭では理解できていても仕事探しはなかなか進まなかった。何事に置いてもギリギリにならないとやる気がおきない性分なので、残りのお金が2万円ぐらいになるまで毎日、毎晩遊び続けた。自分で借りた家に部屋。誰にも縛られない生活。朝から学校へも行かなくていい。そして連れ込み放題。
そんな一瞬の幸せな生活を噛み締めるが、気付いたときには2万円弱しか手元に残っていなかった。身寄りもない異国の地で財布の中が2万円になるとさすがに焦った。そこから急いで仕事探し。学生の時はただ朝8時半までに学校に行く事があんなに辛かったのに、今は行かなくていい。でも毎朝学校に行くだけで生きて来れた。そんなありがたい事だとは気付かずに。
学校を卒業して自由になった今では朝8時半に学校に行かなくてもいいし、好きな事だけをやっていればいい。でも働かない事にはお金が貰えない。ここは外国で、頼る家族も知り合いも近くには誰もいない。すなわちそのままでは生きてゆけない。やりたい事すべてが自分のやりたいようにできるという事は、全てを自分でなんとかしなければいけない事だということに気がついた。その後、必死で仕事を探して見つかったから良かったものの、給料日前の残金はわずか200円程だった。この頃はかなり貧困生活だったので毎日の食事は街頭で売っている切り売りピザ。お腹いっぱいになるぐらいの大きさのスライスが一枚1ドルほどで、コーラとセットにしても1.8ドルぐらい。栄養バランスとかは別として、自炊するよりも遥かに安い。そんな貧乏生活も一度は経験しておいて良かったと思う。やはり人はギリギリに状況に追い込まれる程に力を出せるものなのだろうか。
 この時感じた自由。やりたい事だけをやって生きていけたらどんなに幸せだろうか。でもその「やりたい事をする」というのは何処を見据えての「やりたい事」なのか。
3日、3週間、3ヶ月、3年・・・、棺桶に入るまで。もしかするとその先を考えている人もいるかも知れない。自分の場合はこれからの3年と死ぬ時の事を考える事にしている。この3年と最期を50/50に考えれば間は必然的に決まってくるだろうと考えている。
これから何が起こるかわからない人生。死ぬときに幸せだったと思えるように行きたいので、できるだけ我慢はしない。明日死ぬかも知れないから。 でもそれだけでは60年後になるかも知れない最期までやりたい事が出来ないかも知れない。だからある程度の先を見据えた我慢は必要なんだろう。だからそのバランスの取れたところをうまく歩いて行く。そんな風に生きていきたい。

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ダウンタウンに沿ってあるビーチ イングリッシュベイ

 仕事は和食料理店。海外でいういわゆるジャパニーズレストランていうやつ。なにせ英語が話せないので日本語で通じるところしか働き口が無い。幸いにも日本で包丁を使った経験があったので、アルバイトの経験とはいえ役立った。少し大げさかも知れないが生きる為にはどんな些細な知恵でも技術でもとにかく自分の持てるすべてを駆使する事が大切。バンクーバーには一万店ぐらいの日本食レストランがあり、その90%が中国人や韓国人といった外国人がやっている。
それでも日本人がやってる店もかなり多いので、そういう所で働いた。仕事自体は特別これといって楽しい仕事じゃなかったのかも知れないが、回りの人たちがバランスよくいい奴と嫌な奴が居てくれたおかげで楽しく働けた。嫌みを言う人が居るからこそ、かばってくれる人のありがたさが分かる。
 ここバンクーバーではバイト・正社員といった概念は無く、パートタイム・フルタイムと呼ばれる区切りで分けられている。単純にパートタイムは労働時間が短い人たちのこと、その反対でフルタイムは労働時間が長い人たち。基本的に受けられる社会保障は同じ。所得税、国民年金、州税と控除される項目も全く同じ。所得の金額に寄ってパーセンテージが変わってくるだけ。労働者はみんなSINという番号で管理されている。日本の制度もこうならないものかとつくづく思う。
要するに労働者には全て[SIN]ソーシャル・インシュアランス・ナンバー(社会保険番号)という番号が与えられており、それが無いと働いてはいけないしそれを承知で雇う雇用者も少ない。それで所得を管理して、所得税、年金、保険等の控除をする。
僕らのような短期間しかカナダにいない外国人労働者は年度末に申請さえすれば年金や所得税は還付される事になっていて、僕の場合は20万円弱還付された。もちろん日本でもきっちり確定申告をすれば還付される人も沢山いるはず。自分自身それを知ってからきっちり確定申告したらある程度の金額を還付してもらえた事がある。
 そんなバンクーバーの労働環境、きっちり管理されているように見えるけど実は意外とずさんだった。ビザ無しで働く日本人もたくさんいたし、給料の半分を小切手で半分は現金などみんな色々な手でちょろまかそうと必死な様子。小切手で支払った給与は税金を申告しないといけないけど、残り半分の現金で支払った給料は証拠が残らないので税金を申告しない。そうすれば雇用者と被雇用者どちらもが得するというわけだ。でも実際のところ被雇用者は後から税金が還付されるのでそんなに得じゃないけど、その場のお金は欲しいもの。オリンピックがあった今はもっと厳しくなって不法労働者などへの締め付けがかなり厳しいそうだが、自分がいた頃はみんなやりたい放題やってるように見えた。
かくいう自分も一日13時間ぐらいは働いていたけど残業手当なんてもちろん無し。唯一の救いがチップという北米ならではの制度というか文化のようなもの。
お客さんが受けたサービスを基準にお会計の合計額に対してパーセンテージで上乗せするというのが基本で、大体10%から15%ぐらいを会計に上乗せする。店が気に入らなかったり、サービスが良くなければ置かなくてもよいし、気に入ればいくら置いたっていい。僕が働いていた店では多い日は一日1万円ぐらいもらえた。チップは毎日現金で貰えるので、チップが立派な収入源である北米文化の恩恵に預かって生き延びたようなもの。

 渡航2ヶ月目にして一時は残金200円までいったもののそこから働き続け、4ヶ月後には車を購入。安い中古車。もちろん日本車。やっぱり北米では日本車の人気が高いので、その分他のメーカーと比べると中古でも割高。初めて買った車は日産のNX1600という車。20万キロ走って20万円ぐらいかな。中古車も販売店で買うのではなく、「売ります」みたいな感じの張り紙をして走っている車を見付けて電話して交渉するとか、インターネットの掲示板を利用するとかいろいろな方法がある。
もちろんバスやスカイトレインと呼ばれるモノレールのような電車などがあるバンクーバーなら車無しでも十分生きていけるけど、ここはやはり北米。車があったら100倍楽しい。ガソリンも日本と比べると安く、またアメリカに行くと日本の半額近い価格だったのでアメリカにはよく遊びにいった。特にシアトルはバンクーバーから200km程でバンクーバーよりも大きい都市なのに物価はシアトルの方が安い。月に一度は遊びに行っていたんじゃないかっていうぐらい気に入っていた。今でもチャンスがあればシアトルに住んでみたいと思っているぐらい好きな街だ。
 車を買ってからというもの夜中3時までの仕事が終わってからも遊び、寝る暇も惜しいぐらい遊んだ。この時期がバンクーバーで一番楽しかったと思えるぐらい。自分で稼いだお金で車を買い、遊びに行き、自分のやりたい事をやる。仕事をしていないときよりも遥かに楽しい。自分の力で生きていると感じた瞬間だった。同時に少し天狗にもなっていた。

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シアトルの市場 マーケット

 冬は自分の車でスキーにも出かけた。幼い頃からずっとやっているので冬になるとスキーをしないと体の調子が悪い。一年中スキーができたらどれだけ幸せか。今はそうなるように努力している。
そうこうしているうちに1年なんてあっという間、気付けば帰国の時期。バンクーバーに残るか、また他の国へワーキングホリデーに行くか色々悩んだけど、その頃の自分の中に日本で生きていくと言う選択肢は無かった。「日本は自由の利かない生き辛い国や」そんな恥ずかしい事も言うてたりした。
あんまり楽しい生活をしていたのでもう少しバンクーバーに残ろうと思ったけど、その為にはワークビザを取るか学生ビザを取るかなんとかしないと行けない。働かないと生きていけない自分にはワークビザを取る選択肢しか無かったが、こればっかりは自分だけではどうにもならない物でワークビザをサポートしてくれるオーナーが必要だった。幸いにもワークビザをサポートしてくれるという良いレストランと出会えたおかげでバンクーバーに残ることはできそうだったけど、どうしても虫歯を治したかったのでひとまず日本へ帰って虫歯の治療をすることに。歯の治療は保険が効かないので飛行機を使っても日本へ帰った方が安くつく。ということで一旦日本へ帰国し治療してからバンクーバーへ戻ることにした。


そこで僕の人生で一番の出来事が起こる。
「強制送還」


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